慈光寺 久慈城 和合橋 観音様 山口八幡宮 旧山口小学校 太永寺 大森明神 山口柿 落合 新町館の埋蔵金 剣舞 源義経 小久慈焼 三日町神明宮例大祭 トゲ魚 琥珀 久慈渓流 三日町衆とベコのベッタ 大川目村 愛宕神社 傘楓 ぶすのこぶ 御申大権現 久慈市立中央公民館のところにあるJRの踏切はなぜ大川目踏切か 不老泉 大川目小学校 大川目中学校 たたら館 山口発電所
昔、大川目の地に九戸郡の半ばを領していた久慈氏の菩提寺として慈光寺はこの山口の地に寺格を誇っていた。しかし、久慈氏は天正19年秀吉の奥州平定の言に従わなかったため、寺は焼き払われ久慈氏とその運命を共にした。その後大野の蒲の口で隠し拝まれていた慈光寺の秘仏を奉じて寛文の少し前の頃か、この地に住む接待氏の手によって再び慈光寺が建てられたもののようである。その後、宝暦、安永の両度にわたり続け様に火災の不運にあっているが、寺請制度による切支丹などの取り締まりの一役を担う寺として近在随一を誇る権式を持っていた。しかし、明治の始めの排仏毀釈により時の住職が神を建てた八坂神社が因で一朝にして衰亡した。今日の慈光寺は、一旦廃したものを大川目、戸呂町の檀徒有志180名により明治13年1月12日に再興した。
旧大川目村は、久慈町の西方に位置し久慈川の両岸に栄えた村で、面積は三方里弱、久慈川は郡内で一番長い川で延長八里十二町といわれ流域は相当広く、当時は文化や経済をはじめ交通の要路として栄え、かなりの隆盛を極めていたと伝えられる。和合橋の由来については、風説は種々あるけれども、大筋はこの久慈川を境として河南河北に分かれ、神社や仏閣及び官庁や学校の配置について紛争があり、以来ことあるごとに対立していたという。特に選挙になると一段と厳しくなり、明治22年に町村制が施行された後も議員数6対6を保つために部落民はことごとく対立し、子どもたちまでおよんだという。これを憂いた当時の村長村田宇吉氏は、今の大川目保育園の後方に明治39年から40年に郡道改修工事関連事業で架設された橋に、河南河北とも仲良くしようということで「和合橋」と名付けたといわれています。
昔から安産の神として近郊近在の信者に知られてきた五防観音世音は、いつの時代に生出町の小高い山の上に鎮座されたか定かではない。大正10年の頃まで見られたケヤキの巨木や、昭和26年の部落の大火で一昼夜も燃え続けついに焼け倒れたサワラの巨木を見ても、少なくとも数百年の年月を経過したことは容易に想像される。神殿の玄関両脇に建立されている男女の大きな2体の仁王は、昔田屋にある長久寺から生出町に移されたものだと言い伝えられている。昔から病気でお詣りする参拝者は、それぞれ目を病むものは仁王の目に、腰を病む人は仁王の腰に白紙を切って貼り、病気の快癒を祈願し、やがてあらたかな神のご加護によって病気が全快した時にはお礼参りをしてその白紙をはがした。このことは今もなお信者の習慣として続いている。特にお産の神として女性の信心が厚いことから、生まれ出る、すなわち今の生出町の地名がついたと言い伝えられている。不思議なことには、小高い山の上にありながら、ケヤキの大きな根の跡から今もなお、昔のままにこんこんと湧き出る清水を見ることができる。生出町の地名にふさわしいものが感じられる。
国道281号線を山形村方面へ、涼感を誘う久慈渓流の入り口近くに、樹齢何百年と思われる杉の大木が並ぶ。ここが鎮守の森である。神社創設の由来は五穀豊穣祈願が動機となっているが、海の守り神としても知られている。何北朝時代に、長慶天皇が東北行幸の際、宮古の沖で防風に見舞われ、この時、自ら宝剣を海中に投じ武神八幡の名を念じたところ、まもなく海は静まり、一行は野田に上陸し当地にたどり着き、八幡神がまつってあるのに大喜びし、肌身離さず持っていた八幡像を奉納したという。もう一説には坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため軍を派遣したとき、当地を訪れた右大将軍が武運を願って兜を奉納したことから別名兜八幡とも言われ、久慈・九戸地方でも一、二の古い伝統を誇る。雨続きで、農作物が実らなかった天暦10年(956年)、山口の住人弥平太義高が毎夜、水浴して青天を祈願したところ、8月15日になって天候は回復し大豊作となったと言う。その後、毎年8月15日を祭日として、農作物の初物を奉納するようになった由来である。時は移り、日常生活の中で、交通、受験と新たな不安材料が増え例大祭だけではなく、九戸郡内、八戸方面からの参拝者でにぎわい、拝殿横の井戸にこよりを投じ、うまく沈むと願いが叶うと言う風習が今も残っている。
(写真左:建て替え前の哀愁の漂う八幡宮 写真右:大きく立派になった新しい八幡宮(平成14年竣工))
山口小学校は、明治11年5月、大久保小学校と称して創設された。明治19年4月上大川目小学校に合併し同21年には分離独立して山口簡易小学校となり、同23年山口尋常小学校と改称し、雨もりのする柾屋根の建物を同42年11月に新築するに至った。当時の生徒数は100名ぐらいと聞く。昭和29年3月に大川目小学校と円満な形で統合する頃のことになるが、食料難時代でもあったので部落の畑を借りて大豆をつくり、その収益金で図書や教材の購入に充てたものでした。山口は農村でしたから家の手伝いで長期欠席する子の多いことには大変悩まされました。当時、群内のトップを切って養護教諭を設けたり、地域も敬老会とか農産品評会、郷友会の集会や演芸会など学区の行事も多く、部落の方々も実に進歩的で町づくりに協力し合っていたことを覚えています。本校と分校合わせて250名あまりの子どもたちも素直で、走ることにかけては郡内でも高いレベルにありました。そして今の子どもたち以上に忍耐と努力というものを持っていたように思います。(写真は養寿荘にある跡石碑)
太永寺の前身である長床庵は、九戸郡誌や本寺の長福寺の記録によると徳川八代将軍吉宗の享保17年(1732年)長福寺六世劫外太永大和尚が、長床庵という草庵をつくりました。最初は大川目村役場のあたりにあって、再建をくり返し現在は三日町中心部の山手の銀杏と欅の大木の下にひっそりたたずんでいます。このお寺は廃寺の時代が長く220年間続いた。昭和27年宗教法人法の改正の時、長福寺15世が「太永寺」として登録御開山し、現在に至っております。本尊の釈迦如来坐像は延宝2年嵯峨善右ェ門と印されてあり、1.2メートルもあってかなり文化的価値は高いものといわれています。境内には秋葉三尺坊大権現と成田不動明王が祀られてあり、大正時代より毎年1月15日の縁日には近隣の善男善女の参詣で賑わいをみせています。太永寺本堂は老朽化がはなはだしかったことから信徒である村田キチさんが巨費を投じて建立された。昭和45年二世住職が離任以来無住の寺となっていたが、昭和54年から小笠原祐輔和尚を三世として迎え現在に至っています。
大森山は、小久慈と生出町、川貫の境にあって、その高さは海抜約500メートルぐらいかと思われます。安政年代生まれの私の祖母にから聞きましたが、この山の中腹に大森明神という小さなお宮がありました。そのお宮の西側に面した所に唐傘松といって、傘を広げたごとく枝振りの良い松があり、明神様の守り松といわれたそうです。長年の風雪にも耐えて、今なお青々としています。またお宮の前には、あまり大きくない井戸があったそうです。この井戸はどんな日照り続きの時も水が枯れることはなく、海水と同じ塩気があってワカメやコンブ等の海草が生えていたそうです。今はその井戸は埋まってしまったのか、跡形もありません。人々は、この大宮神明を農神様としてうやまい、夏の水不足や干ばつの時には、小久慈側や川貫、生出町側で申し合わせ、すげ笠にミノを着け帰りには必ず雨が降ると信じて山に登って行きました。そんな人たちの姿を夢のように覚えています。そこでは、神官の御祈祷の後に、用意していった酒を井戸に注ぎ、太鼓や笛を鳴らして御神楽を奉納したそうです。女や子どもは登ることを禁じたので遠くでその音を聞くだけでした。そして、翌朝には大森山に霧がかかったり、とにかく三日以内には必ず雨が降ったそうです。今思えば、それが神技なのか、偶然降ってきた雨だったのか、わかりませんが。さて、なぜあの高い山の上に井戸があったり、海水のようでしかも海草まで自生していたのか不思議でなりません。今も枝成沢には「波打ち峠」という名が残っていたり、新丁橋の下から浜石がごろごろ出たり、三日町館でハマグリの貝などが出たことから、もしや大昔はここら一帯は海だったのではないかと謎が深まります。
山口柿の歴史については誰も知る人はいない。山口柿は、大川目町山口に特産する柿で、その大果と種子がほとんどないことから、この地方で他に例を見ない名産地として古くからその名を馳せていたという。この柿は、その木を他地方に移植しても、又種子をとって持っていても蒔いても山口柿のような見事なものは出来ないと言われている。どうしてそうなのか、この謎に答えを出せる者はいない。古老の話によると、いかにも貧しそうな僧侶がこの里に行脚したときのことだそうである。里の者は、乞食姿のこの僧侶に日々厚く饗し、そして仏道によく帰依したという。実はこの僧侶が弘法大師だったのである。大師は乞食姿で説法し、諸国を巡歴修業の途であったという。そしてこの里に着き、この里の者のあたたかい心ずかいと仏を信ずる心に痛く感動し、里の者の功徳にこの柿を授けたと言い伝えられている。だから、この地にしか山口柿は育たないのであろう。それだけに、年々少なくなってゆく山口柿を見るには寂しくてたまらない。
朝日かがやく 夕日ちらちら
あじの木の下 うるし万杯 黄金万杯
知る人ぞ知る旧城趾新町館にちなんだ詩句で、今日まで言い伝えられているが、何と解明するべきなのか誰も判っていない。朝の光がまぶしく差し込み、西日がちらちらと当たる地に、あじの木というのがあって、その下にうるしや黄金財貨が隠されていると思いたい。とするならば・・。天正19年の九戸の合戦で南部信直に敵対し、九戸党はよく奮闘したと言われるが、敵の謀略にあい九戸政実をはじめとし、久慈備前守直治は斬首され、後、久慈城は一族の久慈修理が南部信直の代官となって城を管理していたが、文禄元年に破脚され城の歴史が閉じられている。この時であろうと考えられる。落ちゆく者が、落ちてゆく城の高価な財貨を、この詞句にうたい込み後代のために埋蔵したに違いない。これに類似した歌や文句はここだけでなく、本来は寺院と深く関係し、寺々よって樹木の名や下の句が異なって伝っており、それがいつの間にか落城の埋蔵金伝説となったものである、と言う説もあるが決め手がない。
それだけに、どこかに莫大な黄金財貨が隠されていると思うと果てしないロマンが広がってゆく
三日町に伝わっている剣舞についての由来を知る記録は何ひとつ残っていない。明治の古老の話から拾ってまとめてみると、現在の下閉伊郡田野畑村沼袋地方に伝わる剣舞を、村田福松という老人が、明治40年ごろに三日町・砂子の子どもたちに手ほどきをしたのが始まりといわれ、長い歴史をもつことになる。当時の剣舞は、笛や太鼓ではやし、手に長棒・長刀に手木を持ち、一種神秘的なものがあったようである。しかし、いつの頃からか装束も舞も単純なものになってしまった。それは現在も沼袋地方に伝わる剣舞の勇壮さからして容易に理解できることである。剣舞は東北の名地に伝わる民俗芸能で、その全ては念仏踊りから生じており三日町の剣舞もその一種を組むのであろう。いずれにしても、私たちの町の郷土芸能として息づいており、今では駒踊り、虎舞いと共に毎夏お盆の後に行われる神明宮例大祭に供養と豊年を祈願して奉納され、今なお小学生や中学生に踊り継がれて保存されている。
鎌倉時代の初めのこと、兄頼朝に追われた義経主従は平泉の藤原秀衡のもとにかくまわれていたが、衣川の舘で読経している時、その子泰衡の裏切りを知り押し入る軍勢の足音に、「これまで。」と自ら舘に火を放ち腹かき切って31歳の生涯を終えたといわれている。しかし、その時死んだのは身代わりで、蝦夷(北海道)まで逃げのびたと今も語り継がれている。平泉をのがれた義経主従は、宮古から島ノ越、普代へと海岸をのぼり、ついで西へ進み小鳥谷、さらに東へ進み山形の霜畑を経て荒津前平、真角坂を下り、夕刻近く大川目に入り、閉伊口を通って侍浜へ向かったと伝えられている。ところが、大川目に着いた義経主従のゆく手には、畠山重忠の軍勢が待ち受けており、重忠は情けの厚い武士で今は敵方、どうせなら重忠の手にかかろうと山側の道を進んだが、下大川目まで来ても一向に打って来る気配もなく、吉田に陣取っていた畠山の兵は夕食の最中だったという。これも重忠の計らいで、重忠ただ一人が巽山に立ち、心の中で義経に当たらぬように祈り放った矢は、義経の横をかすめて後ろの松の木に刺さったという。(後にこの矢は諏訪大明神の御神体となっている。)
所は大川目の郷、義経主従はつつがなく閉伊口をさして夕闇へ消えていったというが、今は昔、それを語るものは何もない。
(大南部野田領参照)※中尊寺所蔵の義経像
小久慈焼きは文化10年4月相馬中村から来た熊谷嘉藏がはじめたものといわれており、相馬焼の原土に近い土を産する小久慈村に定着したことから、人呼んで「小久慈焼」と称され、庶民にまで愛用されるようになったという。しかし、八戸藩日記文化10年(1813)4月29日の条によると、「小久慈村の甚六という者が、相馬から来た嘉藏が焼き物を始めたいと願い出伝々」とあり、さらに、「窯場は大川目三日町辰ノ口畑付近とし、半役御藏高一升、地主は四日町字八という。土捨て場は仲小路館長之助の持地とし、新山として山口村から伝々」と記されている。その申出は許可され、この大川目の地で藩有林を燃料材として払い下げてもらいこの地方の民窯としてはじめて製陶に成功している。主な作品は「どんぶり」「皿」「鉢類」「とっくり」「茶碗」などであったようである。漆器しか使うことのなかったこの地方では、この焼き物により新生活を新鮮にし、家庭生活に快適さをもたらしたいという点で意義深いものがある。甚六の息子甚右衛門も嘉藏に師事し、陶器を焼く頃は既に小久慈の地に移っていたのかもしれない。
(八戸・上杉文書「文化十年八戸藩日記」参照)
どん車に機織台をのせ、柳や松竹で飾り、麦わらで人形を作って山車をひく三日町のお祭りでは、「はだあし祭り」とよび近郊近在でもたいへん有名であった。その山車が午後から作られ、夕方遅くならなければお通りがなく、三日町の夜祭りともいわれたが、それはあまりにも山車が粗末で日中ひけるものではなかったからだといい伝えられていて今もその名残がある。この起源については定かではないが、三日町の全盛期ごろからだと考えられる。日清戦争後になると山車もどん車から馬車へ変わり、紙花に飾られ人形も載るようになった。時代の流れの中で一時中断した頃もあったが、昭和の初めそれまでは御神輿がなく、ご神体の鏡をお通りに用いていたが、村田長次郎氏(三日町)の寄付で御神輿が初めて出され、久慈のお祭りにも何度も貸し出されたほどである。昭和20年台になると2~3ヶ月もかけて手作りされた豪華な山車が上組、中組、下組と3台出るというお祭り最盛期が8年ほど続き、期間も1日から2日へとなり、久慈はもちろん野田などへも貸し出された。あの祭りの頃がもう一度やってきてほしいものだ。
そう古くもない昔に、仲小路に名もない余り大きくもない沼があって、子ども達はそこでよくフナを釣り上げて遊んでいた。いつどこから来たものかはしれないが、そこにまたおもしろい背中に3本のトゲがあるザラザラとした肌のトゲ魚がいた。その沼は、久慈川の幾度かの蛇行の末にできたもののようで、終戦前後まであったようだが、今では畑地となってトゲ魚はもちろん沼の跡形さえない。このトゲ魚は、オスが流れのゆるやかな所の水辺近くにガマなどの茎を支柱に種々の水草の根や葉で2~5日ほどで見事な巣を作り、そこでメスが産卵し稚魚が泳ぎ出すまで不寝番をし、やがて精根つきて死んでゆくという。
「上大川目今、繋と合せ、大川目村といふ。下大川目の西一里、此の地、碁石山に琥珀を産しし、方言クリノコと称へられる。」と大日本地名辞典にある。くんろく(薫陸)とも、くんのこ(薫陸香、薫陸粉)とも言われた琥珀は、今「久慈琥珀」の名で知られ、古代ローマにも通じている。「幸福の石」「太陽の石」と呼ばれる琥珀は、松柏科植物の樹脂が化石化したもので、その成分は「琥珀酸」などの樹脂酸であり、厳密には鉱物ではないが、石炭、石油とともに有機鉱物とされている。琥珀は古いものでは白亜紀層(9,500万年前)から産し、いずれも数千年前である。150度前後でやわらかくなり、300度で溶け容易に燃える琥珀はマガタマやマツメダマなどの装身具や医療用として、江戸時代には香料や塗料として用いられ、既に16世紀には奥州鹿角郡南部久慈村がその山地と明記されるにいたっている。琥珀は南部藩の重要産業として相当量が輸出されているが使途は明らかでない。その産地として夏井や小久慈と交ざって大川目の碁石と田子内が記されている。 明治になって大川目産の琥珀を地質調査所が分析し、かなり良質であることを確認している。
近年まで「蚊いぶし」でしかなかった琥珀、その金色に澄んだ輝きの向こうに、遠い昔をしのばせる果てしないロマンがあると思うとその産地であることを誇りに思う。
北上山地に源を発し、川々を合わせて25.5km流れて太平洋へそそぐ久慈川。国道281号線に沿って緑の渓谷をなし、水際まで迫る断崖絶壁、巨岩に渦巻く水の流れは、今も美しい渓流をつくっている。
(久慈渓流・鱒滝付近)
「三日町衆とベコのベッタ(牛の糞)は油断するな。」と近辺の人はいい、近隣町村の村からは「大川目衆と・・・」と嫌われたという。ある古老の話によると、三日町が近郷近在で一、二に栄えていた明治初年、酒・雑穀・雑貨等の全てを扱うとても繁盛していた店に賊が押し入ったという。神明様に合口(つばのない短刀)が刺さった夢を見て旅立ちを伸ばしていた店の主人の兄は、火事場装束の様に武装した屈強の若者達が店で思い思いの乱暴狼籍を尽くす間、弓張提灯をかかげて面体等詳しく調べおいたとのこと、落ち着いたものである。その徒党は立ち並ぶ家々に乱入し、何軒目かの家に入ったとき、そこにちょっと気転の利いた主人がいて徒党の頭はとなり部落の者とみて、お前等に壊されるくらいならと、松とんがい(松木を灯りの代わり使うもの)に火を着けようとしたが、我が家まで焼ける大火になってはと思い三日町から去っていったという。その後、福岡(二戸)から補方同心(今の警察)なる者がきて、シラミつぶしに犯人探しをしたというが、町内から罪人をだしたくないと隠しとおしたという。
大川目村は、寛文年間以前は南部大膳大夫重信公の領地であったが、寛文5年重信公舎弟南部左衛門尉直房公八戸に分地と共に、八戸南部藩の所領となって明治維新まで引続き久慈代官所の支配に属した。当時大川目村は上、下に分割され、砂子、三日町、仲小路、生出町、山口、森、新町、田中、枝成沢を上大川目村とし、八日町、吉田、天神堂、沢里、川貫、畑田、寺里を下大川目村とし、両村に夫々名主、庄屋各1名を置き治安にあたった。明治4年3月名主を廃し村長とし、庄屋を廃して市長を置いた。明治5年8月、岩手県と改称され、明治6年11月、村長並びに市長の制を廃し戸長制度を採用、上、下大川目村に各々戸長役場を設置し、上大川目村は三日町に、下大川目村は八日町に開庁した。
明治8年1月、三日町戸長役場は八日町に移転合併され、上、下併せて大川目村と称し、同時に戸長役場は長久保村及び門前村をも併せて三か村連合の役場とした。明治13年5月、郡区編成の際、九戸群は南北二郡に分かれ、大川目村は南九戸郡に属した。明治16年6月、旧大川目村の分離により、三日町、生出町、仲小路、砂子、山口、森、新町、田中を上大川目村と称し、三日町に繋村を設け村政を執行した。
明治21年、村田梅吉方にあった戸長役場を、神明宮境内に新築移転、同年4月繋を包括し大川目村と改称し、7月戸長を廃し村長とし村役場に改称。明治29年、南北九戸郡を合併し九戸郡と称した。大正11年3月、三日町砂子部落大火で村役場を焼失、12月に上大川目5地割に新築移転、昭和31年11月合併市制施行。
(久慈市勢大観より)※写真は昭和60年頃の三日町
愛宕神社は、仲小路の山ふところにあって、ひっそりとしてどこか寂しそうでさえある。
樹齢150年はあろう老杉の参道を進んで行くと、登りつめた山門の向こうに、昭和49年に開基800年祭を実施した時宗遍照山寺光寺がある。受難の歴史をえた寺だけに、周辺の樹木からも風格が感じられる。中でも目を見はるのは、山門近くの傘楓である。昭和55年の11月1日に市の文化指定を受けたこの楓は、樹齢280年以上、根回り1.92mで目通り2.9mである。高さ3.8mでその枝は左右二枝に大きくわかれ、下枝秀枝がうねりくねって姿態をほしいままにしているのは、まことにおもしろい。枝の張りは最長4.3mもあり、四方に伸びたその枝ぶりは、まさに傘を広げたかのようであることから傘楓と称されている。言い伝えによると、この傘楓は新町部落に寺下長太という者がいて、明治18年84才の老齢で没したが、そのひとが10才の時、同じ部落に住む中野平次郎の前庭から、4~5人かかりでこの寺の広庭に移し植えたものだという。その昔がしのばれるこの寺で、15m四方に影を落とす傘楓は、一層閑散とさせ、散策の客足をしばしとどめさせ、遠い昔の出来事に思いを寄せたくなる。今では、檀家はもちろん、市内外から見物に訪れることもあり、その形状に驚いて帰っていくという。素性良く品性をもって、風雪に耐えながらも生きてゆく傘楓に人の一生をみる思いがする。
久慈市指定天然記念物(昭和55年11月指定)
迫り来る巨岩とどっしりと構えた大岩をぬって流れる久慈渓流には、数々の名所がある。
新町から田中にぬける道ばたの土手の上に、そこだけが陽だまりになっていて御甲大権現が腰を据えている。これも庚申塔である。庚申は十干十二支との組み合わせの第57番目にあたり、作神・火の神で、信仰すると家内安全・商売繁盛・夫婦和合になるという。庚申の日は、年の6回来るのが普通で、7回の時はいい世に、5回の時は凶作だと言う。
当時、大川目村は上大川目と下大川目に分割されていた。上大川目は現在の大川目全域を、下大川目は現在の八日町・吉田・天神堂・ 沢里・川貫・畑田・寺里を指している。昭和31年から久慈市制が始まるまでは、このあたりも大川目だった。
いつの頃からか、この湧水を飲むと不老長寿になると言う言い伝えが生まれ、「不老泉」と呼ばれるようになり、千古つきない霊水の名声はたちまち広まり、この恵みにあやかろうと水を求めて遠方からも多くの人が訪れるようになりました。
昭和60年11月に「いわての名水20選」に選ばれています。
昭和22年4月 大川目村立大川目中学校創立
昭和22年4月 大川目小学校の講堂にて開校式及び入学式を行う。(生徒数140名)昭和23年4月 大川目三日町に仮設校舎完成
昭和23年7月 大川目村立大川目中学校滝分校設立
昭和24年4月 本校校舎第一期工事完成 2,3年収容
昭和26年11月 本校校舎第二期工事完成。(生徒数265名)
昭和27年12月 本校校舎第三期工事 及び 講堂完成
昭和29年11月 滝分校を廃止、新たに滝中学校を創設
昭和29年11月 町村合併により、久慈市立大川目中学校と改称。(生徒数219名)昭和38年 (生徒数382名 このあたりの生徒数が最高である)
昭和41年11月 教員住宅2棟新築
昭和42年11月 さらに教員住宅2棟新築。(生徒数264名)
昭和45年12月 鉄骨造の新体育館完成
昭和50年8月 鉄筋コンクリート3階建ての新校舎完成。(生徒数183名)
昭和53年8月 屋外水泳プール建設
平成元年。(生徒数147名)
平成14年。(生徒数96名)
大川目中学校は運動部、文化部ともに活動が盛んで、特にバレーボールでは県下にその名をとどろかせた時代もあった。
平成14年で創立55年である。
「たたら」とは鉄を製錬する場所をいう。鉄山のことであり、昔は「ドボ」ともいった。久慈地方は大量の砂鉄があり日本の二大産鉄地であり、寛政のころは山陰山陽の競合して、江戸市場を制覇したこともある。久慈砂鉄は一般のマサ砂鉄と異なり、浅層・洪積世・山砂鉄で褐鉄鉱系の「ドバ」といわれ、膠着した茶褐色の粉鉄鉱の特著があり、日本一の埋蔵量を有し、数億トンと言われている。資料館内部は砂鉄はもちろん、久慈で初めて出てきた粒鉄(溶成物)、鉄に関する古文書、さらには人力を必要としない「水車吹子」などいろんななものを展示している。
※たたら館は「久慈市歴史民俗資料室」として旧久慈市立長内中学校を利用し、平成21年4月に移転しました。
大正9年に、ここの発電所で九戸地方に初めて電気をともしました。
大正6年 6月23日 九戸水力電気㈱発足
大正9年12月25日 発電所竣工、運転開始(最大出力250kw)
(当時の供給概要)
供給区域 九戸郡久慈町他2ヶ村
電 灯 1,057戸 2,136灯
電 力 5戸16.4kw
昭和14年11月 奥羽電灯会社と合併
昭和17年 4月 東北配電株式会社
昭和26年 5月 東北電力株式会社となる