本文へスキップ

少し風向きも変わったかな

大川目のまつり

三日町神明宮例大祭

 大川目町の三日町神明宮例大祭は、どん車に、はたおり台をのせ、柳や松竹で飾り、麦わらで人形を作って山車をひいていました。
 三日町ではこのお祭りを「はだあし祭り」とよび近郊近在でもたいへん有名でした。その山車が午後から作られ夕方遅くならなければお通りがなく、三日町の夜祭りともいわれたが、それはあまりにも山車が粗末で日中ひけるものではなかったからだといい伝えられていてる。
 日清戦争後になると山車もどん車から馬車へ変わり、紙花に飾られ人形も載るようになった。時代の流れの中で一時中断した頃もあったが、昭和の初めまで御神輿がなく、ご神体の鏡だけをお通りに用いていたが、村田長次郎氏(三日町)の寄付で御神輿が初めて出され、久慈のお祭りにも何度も貸し出されたほどである。
 昭和20年台になると2〜3ヶ月もかけて手作りされた豪華な山車が上組、中組、下組と3台でるというお祭り最盛期が8年ほど続き、期間も1日から2日へとなり、久慈はもちろん野田村などへも貸し出された。
 
 今でも三日町神明宮例大祭は8月17日に行われていますが、山車の運行はありません



上 組 三日町神明宮例大祭

 昭和23年 「さるかに合戦」

 昭和24年 

 昭和25年 「丹下左膳」

 「大石内蔵助」


中 組 三日町神明宮例大祭


 昭和23年 「風流・丹下左膳」

 

 「村上義輝」

 

 「石松の最期」


下 組 三日町神明宮例大祭


 昭和16年

 昭和23年

 昭和24年

 昭和25年

 昭和26年

 昭和27年

 昭和29年

 昭和34年(下組にはいつも虎舞いの虎がいます)

『備前組』の誕生の秘話

 約600年余の伝統を持つといわれる岩手県北最大級の久慈秋祭り。毎年8台の風流山車が運行し、華麗な歴史絵巻をくりひろげ、沿道に詰め掛けた人たちを魅了する。また、中日には約千人による郷土芸能パレードも繰り広げられ、祭りを盛り上げる。
 そんな久慈秋祭りに同市大川目町まちづくり協議会による『備前組』が2000年プレミアムの記念すべき年に誕生しました。これは同協議会により祭りを見直そうという機運の高まりにより論議され、4年越の努力により2000年6月に市議会で承認され「手作り山車製作補助事業」の助成金が交付されました。
 そして直ちに秋祭り実行委員会が結成されました。それは市内の既存の各山車組にはない新しい体制でした。

『備前組』の名前の由来は

 天正19年の春、九戸城の領袖九戸政実が宗家南部信直に反し九戸城(現二戸市)に八千の兵をもって抗した。その戦に久慈備前守直治は、大川目・久慈五千石の領主で御年三八歳、体力に恵まれた勇猛な武将であったが男の子に恵まれず、九戸政実の弟を娘婿に迎えていた。義を重んじた久慈備前守直治は自分の運命を知りながら、兵を率い馳せ参じた。
 しかし、豊臣軍の大将浅野長政の謀略に陥り、九月四日城は落城。九戸政実と共に処刑され、領地は没収されてしまい、元禄元年、豊臣秀吉の命により、城砦三六カ所を破却された。葛巻、野田、久慈、種市、小軽米の山城破却の記録がある。
 その後は南部信直の領地として代官所がおかれた。有史以来、奥羽における大事件の中で悲劇的最期を遂げた郷土の先達、久慈備前守直治の生き様は、今なお、私たちに多くの感銘をあたえます。
 『備前組』という名前はそこからきています。

祭りがおしえる

 2000年の備前組に参加した子供たちはほとんどが初めて山車を引いた子が多かったように思う。祭りってどういうものだろうと思ったに違いない。そして、終わってみると以外にもおもしろかったという。あれだけの長い距離を綱を引いたにもかかわらずそういう答えが返ってきた。
 おもしろいとはどういうことか、ゲームのおもしろさとは違ったおもしろさがあったと思う。それは夢中になれたこと、そして大声を出し、髪に着色し、普段やらないことをし、パっと発散したからだろう。そして縦の繋がりを知り、人中での言葉使いを学び、自分たちの受け持ち分担での自分の必要性を学び、終わってからの達成感を知る。
 これこそ最高の情操教育だと思う。これは大人にも通じると思う。そういう祭り馬鹿、私は歓迎したい。
(備前組顧問 三上昌明)