大川目村は、寛文年間以前は南部大膳大夫重信公の領地であったが、寛文5年重信公舎弟南部左衛門尉直房公八戸に分地と共に、八戸南部藩の所領となって明治維新まで引続き久慈代官所の支配に属した。当時大川目村は上、下に分割され、砂子、三日町、仲小路、生出町、山口、森、新町、田中、枝成沢を上大川目村とし、八日町、吉田、天神堂、沢里、川貫、畑田、寺里を下大川目村とし、両村に夫々名主、庄屋各1名を置き治安にあたった。明治4年3月名主を廃し村長とし、庄屋を廃して市長を置いた。明治5年8月、岩手県と改称され、明治6年11月、村長並びに市長の制を廃し戸長制度を採用、上、下大川目村に各々戸長役場を設置し、上大川目村は三日町に、下大川目村は八日町に開庁した。明治8年1月、三日町戸長役場は八日町に移転合併され、上、下併せて大川目村と称し、同時に戸長役場は長久保村及び門前村をも併せて三か村連合の役場とした。明治13年5月、郡区編成の際、九戸群は南北二郡に分かれ、大川目村は南九戸郡に属した。明治16年6月、旧大川目村の分離により、三日町、生出町、仲小路、砂子、山口、森、新町、田中を上大川目村と称し、三日町に繋村を設け村政を執行した。明治21年、村田梅吉方にあった戸長役場を、神明宮境内に新築移転、同年4月繋を包括し大川目村と改称し、7月戸長を廃し村長とし村役場に改称。明治29年、南北九戸郡を合併し九戸郡と称した。大正11年3月、三日町砂子部落大火で村役場を焼失、12月に上大川目5地割に新築移転、昭和31年11月合併市制施行。(久慈市勢大観より)
ずさま・・・・・・・祖父
ばばさ・・・・・・・祖母
ちゃあ・・・・・・・父
かっか・・・・・・・母
あんちゃ・・・・・・兄
おんず・・・・・・・弟
あんね・・・・・・・姉
めらし・・・・・・・娘
わらす・・・・・・・子ども
びっき・・・・・・・赤ん坊
おんちゃ・・・・・・叔父
んばさ・・・・・・・叔母
つら・・・・・・・・顔
まなぐ・・・・・・・目
くびたぁ・・・・・・首
ひざかぶ・・・・・・ひざ
あぐど・・・・・・・かかと
あぎたぁ・・・・・・あご
こうのげ・・・・・・まゆげ
べろ・・・・・・・・よだれ
ぽっぽ・・・・・・・着物
まんま・・・・・・・ご飯
ひご・・・・・・・・ぼたん
さっぷ・・・・・・・帽子
おだまっこ・・・・・人形
ねまる・・・・・・・すわる
ぬぐだまる・・・・・暖まる
ふくろはだき・・・・末っ子
すっぺぇこ・・・・・末っ子
めごい・・・・・・・かわいい
あぐだい・・・・・・悪口
てまだあれ・・・・・手数
ゆっきばる・・・・・結ぶ
せんちん・・・・・・便所
かんな・・・・・・・糸
ちょぺっと・・・・・すこし
わんずか・・・・・・すこし
ごんぼうほり・・・・泣く子
よったぐれ・・・・・酔っ払い
きどころね・・・・・ごろ寝
せっちょうはぐ・・・骨折り
おでんぱつ・・・・・一番
すっぺい・・・・・・びり
ざいごう・・・・・・田舎
あつごと・・・・・・心配
げぁぐり・・・・・・廻り
しつかたまり・・・・便秘
さいばん・・・・・・まな板
かあらぎ・・・・・・すり鉢
すりこんぎ・・・・・すり木
こっちぐめぁ・・・・こちら
けっけだす・・・・・思い出す
はでぁない・・・・・遅い
だんぶり・・・・・・とんぼ
ふるだびっぎ・・・・がま蛙
うんずぐ・・・・・・伝染
あかとり・・・・・・敷布
ちょうじばち・・・・洗面器
こねりばち・・・・・木鉢
すうふる・・・・・・風呂場
もちょこい・・・・・くすぐったい
つっつぐまる・・・・しゃがむ
こどぉだした・・・・しまった
しとねる・・・・・・つくろいもの
ふっちゃぐ・・・・・物をさく
かいちゃむぐり・・・裏返し
ふんじょりかえる・・上向き
とっちゃなげる・・・水からあげる
たましぽうろき・・・びっくりした
つっぱさみ・・・・・着物をはしょる
ぶじょほうした・・・失礼した
きびちょう・・・・・きゅうす
ごんどうば・・・・・ゴミ捨て場
めどず・・・・・・・河童(かっぱ)
ゆぶり・・・・・・・煙
しぜこぜ・・・・・・自然に
たるひ・・・・・・・つらら
はんばき・・・・・・きゃはん
(大川目寿大学文集かえで第二号参照)