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さまざまな風が吹いています

備前組の山車


令和5年 (2023年)


題名

久慈城縁起 具足祝いの躰
山車の説明
 具足祝い(ぐそくいわい)は、かつて戦国時代や江戸時代の武家社会において、正月に鎧(よろい)・兜(かぶと)などの甲冑(かっちゅう)の前に供えた具足餅(ぐそくもち)を下げ、槌(つち)などで割って食べた年中行事のこと。具足祝いが行われるのは、毎年一月二十日とされていたという。この日はいわゆる「二十日正月」とも言われ、お正月の締めとなる節目の日とされてきた。ここ久慈城でもこの正月の「具足祝い」を伝統的な祝い事として長年行われてきたと思われます。具足餅(鏡餅)を割る際、刃物で餅を切ることは切腹を連想させることから縁起が悪いとされ、木槌(きづち)などで叩いて割って細かく分けられた。これも武家社会の行事ならではの伝統と言えるだろう

令和4年 (2022年)


 今年の「久慈秋まつり」は規模を縮小して開催されました。目抜き通りの山車運行はありませんでしたが、各組指定された場所での山車展示とお囃子の披露だけとなりました。
 備前組では「道の駅土風館」に展示していた山車の手直しを施し、今回のお祭りに参加となりました。なお、題名と山車の説明は2021年と同じです。

令和3年 (2021年)

※コロナ感染防止の観点から久慈秋まつりが昨年に続き中止になりましたが、今年は「道の駅土風館」に展示をするために山車を新しく製作しました。

 
題名
津軽藩始祖大浦光信公の安東水軍駆逐の場
山車の説明
 大浦光信公(下ノ久慈の領主時代は南部光信と称す)は、延徳3年(1491年)に、三戸南部氏の命を受け入れ、豪族安東氏の津軽奪還を抑えるために九戸郡下ノ久慈(現在の久慈市田屋町・新井田周辺)から、つわものぞろいの軍勢を率いて種里(青森県鰺ヶ沢町)に入部しました。光信公は、種里城を居城とし、多くの合戦を制しながら、安東水軍の駆逐に大成しました。そして、光信公が目指し後に為信公が成し遂げた津軽統一の礎をつくり、津軽藩の始祖として現在にその名を残しています。為信公(後の津軽為信)は上ノ久慈(現在の久慈市大川目町)を治める久慈備前守の一族で大浦氏に婿養子に入ったといわれています。さて、今年の山車は、久慈と津軽藩との歴史の縁が深いことや、久慈市と鰺ヶ沢町との「歴史文化で結ぶ友好協定」の締結を祝した記念山車になっております。山車の舞台設定は、鰺ヶ沢町の七里長浜と岩木山系の山々を背景にして繰り広げたとされる大浦光信公の軍勢と安東水軍の合戦の様子を、山車いっぱいに表現した大作であります。

令和2年 (2020年)

※コロナ感染防止の観点から久慈秋まつりが中止になりました。

令和元年 (2019年)


題名
久慈城戦評定と陣触の場
山車の説明
 備前組の令和になって最初の山車は、久慈城内で行われる「戦評定」と「陣触」のひとこまを表現したものであります。
いつの世も戦となれば、戦略または戦術を実施するために事前に作戦計画が立てられるものであります。
そのような作戦が決まれば「陣触」といって、その作戦を布告するため、いよいよ殿から出陣の命令が下る。そんなわくわくどきどきするような見事な舞台を表現しました。この歴史を想像しながら備前組の山車を見物してもらえれば、ぐっと時代絵巻を堪能することに間違いありません。

平成30年 (2018年)


題名
竜宮・乙姫伝説
山車の説明
 壮大な海にはいろいろな生き物がいて、それぞれ独特の姿をし、およぎまわっている。中でもあんこうのようなどう猛な深海魚がいたり、巨大な鯨が悠々と泳ぎまわったり、まるで海中は、さながら恐怖の世界を醸し出している。そんないかつい魚たちをあたかも自由にあやつっているのが、まさに「竜宮城」の「乙姫」たちである。今年の備前組の山車は、そんな「乙姫」たちの華麗で艶やかな生き方を描いた今までにない備前組の創作山車となっています。

平成29年 (2017年)


題名
久慈直治 小袖浜捕鯨の躰
山車の説明
 久慈城主久慈直治もまた海には相当の興味があったと思われます。それもそのはず久慈直治の父久慈信義の弟が為信であるということから、為信が時折、津軽から船を利用して久慈城に遊びに来ていたと伝えられている。戦が行われないときは、直治は領民たちと大海に船団をつくって出漁し、小袖浜にいる鯨の捕獲に明け暮れた。そして、久慈直治は領民たちと境内で酒宴を開き、次の戦のまでの鋭気を養っていくのであった。
 今年の備前組の山車は、小袖浜での捕鯨の様子を題材に、勇敢でたくましい舞台を表現した山車になっております。

平成28年 (2016年)

※台風の影響で久慈秋まつりが中止になりました。

平成27年 (2015年)


題名
節分の鬼
山車の説明
 むかしむかし、あるところにひとり暮らしの爺さんがいました。婆さんは病気で早く亡くになって、たった一人の息子も二、三年前に病気で亡くなり、老いてきた爺さんは細々と暮らしていました。村人も病気がうつるからと、あんまり近づかなくて、いつも寂しい毎日を送っていました。寒明けの節分の晩になって、どこの家でも「福は内、鬼は外」って豆まきをしているところを、その爺さんは「鬼は内、福は外」って大きな声で豆をまいたそうな。すると、「おばんですー」って叫ぶものがいました。爺さんが戸を開けてびっくりしました。庭先に赤鬼と青鬼がニコニコと立っていました。「いやーどこに行っても、鬼は外って嫌われているのに、お前のところでは嫌われ者でも呼んでくれた。こんなうれしいことはない。まず、あたらしてくれ」って家の中に入ってきました。爺さんは何もないけどあたってけろって薪をぽんぽんくべました。鬼は大変喜んで「おかげで大変暖まった、何かお礼がしたいが望みはないか」って聞きました。爺さんは何もいらないって断った。鬼は是非お礼がしたいということだったので「お金を少し」っていったら、鬼たちは、ほいきたと言って出て行きました。しばらくしてから鬼たちは沢山のお金を持ってきました。その夜は爺さんと鬼たちは夜遅くまで大酒盛りをして楽しみました。鬼たちは、今年は爺さんのおかげで節分は楽しかった来年も来るからと言って帰って行きました。それから爺さんは一人暮らしでもなんとか人並みの生活が出来たそうだ。

平成26年 (2014年)


題名
久慈城 絢爛雅正の楽
山車の説明
 これは久慈城においても例外ではない。戦いに明け暮れる毎日を送っていた境内では、意外な一面をもっていた。いくさに勝利すればその日は酒を酌み交わし、祝宴を催したりして、明日への鋭気を養っていた。そんな「雅正の楽」の場面もそのひとつであった。面をつけた武士たちによる舞踊の場には女、子供たちも加わりとても賑やかなものであった。今年の備前組の山車は、そんな「雅楽」の絢爛豪華な舞台を表現したみごとな山車になっています。

平成25年 (2013年)


題名
九戸政実・勇壮騎馬隊で天を衝く
山車の説明
 天正19年(1591年)に「九戸政実の乱」において、ときとして優位に立つ九戸政実の戦法のひとつに「騎馬隊」戦法があった。この九戸政実は名実ともに「騎馬隊」の扱いにたけた馬術の名人であった。この「騎馬隊」を駆使した「九戸政実の乱」に加わったひとりに、久慈城の久慈中務政則がいた。この久慈中務正則こそ、九戸政実の弟であり、久慈備前守直治の養子であったのはご存じのとおりである。この政実の「騎馬隊」、陸奥国ではかなう者がいないとさえ言われていたほどの、まさに戦国時代の武勇伝を今日に語り残している。今年の備前組の山車は、そんな「騎馬隊」の勇壮な戦いぶりを表現したみごとな山車になっています。

平成24年 (2012年)


題名
侍と化け猫
山車の説明
 むかしむかし、山奥に寺があったが、和尚が死にお参りする人も少なくなり、床板なども腐り始めてきた。そんなある日、お供え物が不思議と無くなり、村人は怖がって近づかなくなったという。村一番の元気者・熊太爺が名乗りを上げ、出かけていったが戻ってこない。村人が様子を見に行くと、熊太爺が青くなって「真夜中に本堂の戸が開き、スタスタ、うーゴロロ、ゴロロ」と音がしたので倒れてしまたという。そんなある日、侍がこの話を聞き「山寺に泊まり化け物退治をする」と申し出た。侍は寺で用意した薪を燃やし、化け物が出るのを待った。夜明け前、本堂の戸が開き、スタスタと近づいてきた。化け物かと思えば綺麗なお姉様である。姉様は、議論して負けたら帰しませんと言い、「かきならす灰は浜辺の塩に似て」という。侍は「ぐるりが浜から沖が見えるぞ」と言うと、姉様は立ち上がり本堂に消えた。ぎらぎら光る目玉が音を立てながら天井を動き回る。侍は今と思い斬りかかると奇妙な音を上げて消えた。雪上には血の跡が裏山まで続き、洞窟の中で虎ぐらいの大きな猫が死んでいた。村人は、祖先がいる寺を粗末にした罪と思い、この寺を大切に管理したという。また、侍はこの寺の和尚になったと言うお話です。

平成23年 (2011年)

題名
疫病・天災を鎮める久慈城下の祈り
山車の説明
久慈城下では、毎年旧の6月15日にスサノオ命を祭る午頭天王(ごじてんのう)神社と気比神社の祭典を執り行う。この祭りは、久慈家がこの地方を治めていたころから続く歴史ある祭りである。疫病などをもたらす怖い祟り神を追い払うため、統治者である殿様や田畑を耕す地域民によって静かに守り続けられた祭りでもある。今年3月、東日本大震災を眼のあたりにし、人知の及ばぬ災害の凄まじさを感じざるを得ない。備前組では、三陸の大震災が再び起こらないようにと、また、三陸の住民の生活に幸せが訪れることを願い、この願いを神社の祭りと重ね合わせ山車を創作した。

平成22年 (2010年)

題名
陸奥の人柱たらん武将たちの妻
山車の説明
 九戸落城の際に語り継がれるエピソード。命を捨てて、陸奥の人柱とならんとした九戸政実等は、和睦を選択する。しかし、和睦の条件を無視して政実の妻子等の首をはねた。処刑される直前、北野方は、静かに念仏を唱えてから「母親のわれから先に討たれるのが筋ではあるけれども、それでは後に残った幼い子が驚いて乱すであろうから、ここは順序を曲げて、わが子を先に討ちたまえ。われはわが子の死を見留めてからに願いたい。」と言ってわが子の死を見留めてから、武将の妻らしく、自ら刀を抜き自害して伏した。武将たちの妻は、いつでも死と向き合う覚悟を持ちながら、子供を育て、生活していたことの現実、勇気、覚悟を感じる。我が久慈城の城主・直治も親戚関係から九戸の戦いに参戦し、天正19920日、秀次の待つ栗原三迫(宮城県栗原郡)にて政実ら7人とともに斬首される。備前組は、11作として、妻たちの覚悟、勇気、絆たる内面の表情として表現し、供養したく製作いたしましたので、その思いを感じ取っていただきたいと思います。

平成21年 (2009年)

題名
初代久慈城主・信実の治世繁栄の躰

山車の説明
 久慈城は、別名八日舘、新町館とも呼ばれ、久慈氏12代信実が文明年中(1469〜1486)に築いたといわれている。久慈城は、久慈川の支流、切金川と田子内川に挟まれた南東に延びる丘陵の東端部に建設、北側は空堀によって丘陵から区画されている。標高約84メートル、平地との比高差約50メートル、頂上部の主郭(本丸)は2,800u、東から南側にかけて帯郭(二の丸)4段、全体で約80,000uとなっている。井戸跡、馬場跡、水をたたえた壕跡も残っており、海まで眺望でき、見晴らしが良く、外敵を観察しやすい要害の地とされている。しかし、18代直治の時代に九戸合戦で敗れて、天正20年6月の破却令により城は取り壊わされた。城の存続期間は文明年間から約120年とされている。この城には、「朝日照る朝日照る、夕日輝くアジの木の下にウルシ万杯、小金万杯」という言い伝えがあるとおり、生活豊かな往時の生活がしのばれる。 そんな久慈城下の出来事を、備前組結成10周年記念事業として、山車も新たにし創作いたしました。

平成20年 (2008年)


題名
武将・為信津軽を統一
山車の説明
 
津軽為信が津軽地方を統一したのが、1588年(天正16年)のこと。今からちょうど420年前のことである。為信は、豊臣秀吉の文書にも記されている南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)と目され、久慈治義の子供と伝えられている。為信は、久慈城主である信義と不和になり、大浦為則の婿養子となり、大浦氏を継ぐ。元亀2年(1571年)南部信直の父石川高伸を攻め、自害に追い込んだ。その後、浪岡御所北畠顕村の浪岡城を攻め落とし、天正16年津軽地方を統一し、そして天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵された。今年の備前組の山車は、「津軽統一を果たした浪岡城の陥落」の武者絵を資料等から推測しまとめたものである。九戸政実の「九戸の乱」に参戦した久慈直治は、為信の甥にあたることもあり、為信は九戸政実と共同戦線を張った上で秋田愛季にも協力を求め、南部信直に対する包囲網を完成させた。しかし、“このとき歴史は動いた“豊臣秀吉の小田原の陣に参陣しなかったお家は取り潰されることとなり、九戸もその例外ではなかった。そんなことから共同戦線は実現されず、九戸政実及び久慈直治の斬首に結びついた

平成19年 (2007年) 


題名
久慈城下町 火消したちの勇姿
山車の説明
 ちょっとした火の始末から生じる火災。いつの時代からか「地震、雷、火事、親父」と三番目に恐れられてきたものであります。
古きより脈々と受け継がれてきた「火消し」と思っていたら、江戸徳川幕府に始まるといわれています。幕府は慶安三年(1650)に、旗本二名を「火消し役」に任命、「定備消し」(じぃうびけし)と呼ばれる仕組みをつくった。更に享保二年(1717)将軍吉宗の治世に、譜代大名十一人に命じて「大名火消」(だいみょうびけし)の制度をはじめ、少し遅れて町火消も組織されたのがこの頃だといわれています。それ以前はというと、普段は鳶人足の仕事についている町人を火災時には消防に従事させて町屋、町内を守るというもので経費は町内自治会運営されたといわれています。
当時の火災には、延焼を防ぐための破壊消防が中心で、水による消火活動ではなかった。ゆえに、纏(まとい)、鳶口は主な火消し道具となったものです。纏は破壊消防の目印に、また鳶口は物を壊す道具として利用されました。
備前組では、それらの火消したちの勇姿を製作し。近年見られる久慈市の火災撲滅と消防団の活躍をご祈念したいと思います。

平成18年 (2006年)


題名
牛方源次 塩の道と闘牛伝説
山車の説明
 この話は、南部牛にまつわる悲しい物語の一つでもあった。さて、牛方たちがもっとも心を躍らせたのは「牛の角突き」であった。この角突きで今年の「ワガサ」つまり横綱牛が決まるとあって牛方たちも真剣そのものであった。源次の飼い牛「ナラ」はワガサの地位を誰にも渡さない猛牛であった。ナラは夜毎どこかに出かけ、疲れきって帰ってくるので、源次は後をつけてみました。なんと地元では「山の親父」と恐れられている大熊と稽古をしていたのです。ナラは、勢いよく突っ込むと、山の親父はナラの角を握ってこれを押し返すのである。それを見た源次は勝たせたい一身からナラの角に固油を塗ってしまったのです。ナラはその夜は早く帰ってきてウオーウオーと悲しげな声で一夜を泣き明かすのだった。月のよく冴えた夜だった。ナラの姿が見えないのに気づき、源次は山の親父の住む谷間に向かった。源次は、谷間の底で胴腹を角で深くえぐられた大熊の屍の上に、かぶさるようにして息たえていたナラを見つけたのである。 源次は、はじめて牛の心がわかり、人間のあさはかな行いを恥じ、二つの死体のそばで大声をたてて泣き悲しんだ。このあと、源次は、谷間の上の見晴らしのよい場所、たたら岳に祠を建てて、牛神様として祭り、ナラの霊を慰めた。

平成17年 (2005年)

題名
あばれ大熊、熊助と尼僧の物語
山車の説明

 むかしむかし、久慈渓流は動物たちの楽園だったころ。猿ものんびり暮らし、かもしかや鳥もたくさん住んでいました。そんな中に気の荒い親子熊がいて動物はもとより村人や旅人までにも襲いかかったりして大変おそれられていました。ある日、この村に来た若い尼僧がその話を聞き「どんな難航苦行に耐えて仏に仕えてきたもの、この世の人を救うがためではないか」と決心し、なんとか助けてやりたいと思案しました。そして当時としては上等なあん餅を作り、親熊の出かけたすきをみてこのあん餅を子熊に与えました。子熊もこの尼僧になつき、みんなから「熊助、熊助」と呼ばれるまでにまりました。この様子を見ていていた親熊は子熊を捕られると思ったのか、あるいは尼僧に心をうたれたのか、いつの間にか山の奥へ去って行っていきました。
 この話は今も伝えられ有名なお菓子にまでなりました。

平成16年 (2004年)


題名
久慈城主津軽安東水軍を破る
山車の説明

 戦国武将・大浦光信が久慈から鰺ヶ沢町種里に入ったのが、延徳三年(491)のことであった。この年のわずか四〇年ほど前の享徳二年(1459)、南部氏によって北海道に追われた安東義季(よしとき)が西浜に侵攻、津軽奪回を企てて大浦郷に入って南部氏に挑んだ。南部の大軍はこれを攻めて義季を自害させたので、残党は深浦に逃げて籠城したという。この戦いで、金沢家光(光信の祖父)は戦死、家信(光信の父)が久慈市に逃げ、後の久慈城主となる。一四五一年、家信が右京亮を命ぜられる。一四八一年、南部信濃右京亮光信が久慈金峯山堂(きんぶせんどう)建立。この戦を戦国絵巻として創作したのが備前組第五作「久慈城主津軽・安東水軍を破る」である。このように、津軽との関わりが深い久慈市。市民の皆さんも備前組の歴史探訪を一緒に歩いてみましょう。

平成15年 (2003年)


題名
大滝の主と六坊の伝説

山車の説明

 むかしむかし、久慈渓流で丸太を水上運搬の途中に「大滝」というところで何人もの犠牲者がでました。人々は大変困り果てていました。ある日「六坊」という山伏が通りかかりこれらの出来事を聞くと、困った人々を助けようと水神様に語りかけながら祈祷に没頭しました。その願いが通じたのか、21日目に水中から馬に乗ったよろい兜の武士が現れ、さらに21日目に白足袋を履いた美女が現れました。六坊は本当の姿を見せてくれと、さらに21日間も続けて祈りました。そしてとうとう63日目に水面から金色の光がさし、川底から剣がが逆さに立ち、龍が姿を現しました。六坊はこの龍に深々とお礼をし、もうこういう事をしないように祈願しました。そしてこの龍のお姿の彫り物を作り、大滝の主として祀りました。それからは安心して丸太を運搬することが出来るようになりました。
 また、見返しは今年も大川目中学校の生徒12名により企画、製作した日本の有名な昔はなし「さるかに合戦」を取り上げました。舞台は、サルが悪さをしたため、ウス、ハチ、クリ、カニなどがこらしめられている場面を表現しています。地域起こしに参加した生徒たちの意欲に今一度拍手をいただければ幸いです。

平成14年 (2002年)

題名
秀吉に挑んだ九戸城
山車の説明

 南部信直を加えた中央軍6万5千の兵に完全に包囲された九戸城。迎え撃つは2千を率いて大手を守る九戸政実、北側は千五百の兵で親実・久慈備前・大里修理らが守る。中央軍の総攻撃にあい火矢が放たれ、火の勢いが増し城内は一時混乱に陥った。その後、政実は和睦を謀略と知りながら、薩天和尚を迎え中央軍に降る覚悟を胸に刻んだ。
 見返しは「鶴の恩返し」で大川目中学校の生徒達による作品。当時の「ゆとり教育」の一環で製作されました。

平成13年 (2001年)


題名
豊作を祝う領民と備前守
山車の説明

 久慈城は、周囲を二段から三段に切り崩し、三方に谷川の水を取り入れ、堀をめぐらせた中世城郭の象徴的な梯郭式(ていかくしき)山城。築城者は、久慈氏十二代目の久慈備前守信実と伝えられている。城主は、普段は農業をしていて、いざという時だけ身に鎧をまとい戦に出かけたと伝えられている。久慈川沿いに開けた大川目盆地。幾多の冷害にもめげず、領民と一体となり田畑を耕した備前の守。豊作の年には、領民を招きささやかな祝いの宴を開いたとも言い伝えられている。そんな心配りの城主と領民の幸せそうな宴のひとこまを「備前組第二作」としてお贈りいたします。

平成12年 (2000年)




題名
久慈備前守出陣の場
山車の説明
 大川目町で創作した手作り山車第一作は、我が故郷に居城を構えていた久慈備前守直治が九戸城の領袖、九戸政実の旗あげに呼応し戦場におもむく姿を武者絵として創作したものです。
 九戸政実の反乱として知られているこの戦は、天正十九年の春、政実が宗家南部信直に反し九戸城(現在の二戸市)に八千の兵をもって抗したのがはじまりであります。この戦いに参戦した久慈備前守直治は、大川目・久慈五千石の領主で御年三八歳。体力に恵まれた勇猛な武将であったが、男の子どもに恵まれず、政実の弟を娘婿に迎えていた。義を重んじた久慈備前守直治は、自分の運命を知りながら、兵を率いてこの戦に馳せ参じた記録が残っています。しかし、豊臣軍の大将浅野長政の陰謀に陥り、九月四日城は陥落。政実と共に処刑され、領地は没収されてしまいます。文禄元年、豊臣秀吉の命により、城砦三六箇所を破却。記録には葛巻、野田、久慈、種市、小軽米の山城を破却の文字が刻まれています。その後は、南部信直の領地として代官所が置かれました。有史以来、奥羽における大事件の中で悲劇的最期を遂げた郷土の先達・久慈備前守直治の生きざまは、いまもなお私たちの心を揺り動かすのはなぜか。この手作り山車を鑑賞頂きながら想像頂ければ幸いです。